息をする。
口にする。
目にする。
耳にする。
眠りにつく。
私は今日まで、そしてこれからも人としての営みを続けていく。
これらの行為は普遍的でなければならない。当たり前でなければならない。
ただ、そんな普通の日常にどれだけ色を加えられるのか、それが一人一人に課せられているものではないか、と思う。
私は22年生きてきた。
私だけの人生、私だけが歩んできた道、それが人生であり、これらの全てを運命と評することも私になら容易だ。
私は運命とは巡り会うものとは考えない。自分で手繰り寄せるもの、それが運命だと考える。運命など自分の技量と努力と行動で創造するものだと思う。だからこそ、これまで出会ってきた人、経験した出来事、全ては運命であり、全て私に必要であったことで、良い事、悪い事、全てが私を構築するに求められていた事である。
今の私はどんな色に写っているのだろうか。
間違いなく透明では無い。ただし、真っ黒でもない。世の中に白黒付けれるような事象などなく、それぞれ異なった色を纏った唯一無二である。
我々も同じだ。十人十色とも言うだろう。
生きづらさを感じる世が浸透しつつあると思う。今まで誰かの目に触れなかった部分が明るみに出て、常に誰かを感じるような感覚に陥る。
人と触れ合う、混じり合うことは悪いことではない。けど、私達は1人だ。多人数でいることに慣れすぎてはいけない。1人を重んじることを忘れてはいけない。これを重んじることなく、ズカズカと踏み入れるからこそ生きづらさを感じるのではないか、と思う。
私は音楽に影響を受けてきた。
音楽だけではない。色んな人や経験に感化されてきた。それに後悔はない。むしろ感謝しかない。
私がこう生きているのは、深い繋がりだろうと、浅い繋がりだろうと、覚えてる経験、忘れた経験、挙げれば数多ある全てがあるからだ。
だから私は明日も生きる。少しズレて生きていることは何となく認識している。恐らく。
だが、私は私だ。ハッキリと表現することが難しい世の中の中で、「自分らしさ」とは何か、今なら明確に言える気がする。
固定的ならしさなんてなくて、今の自分が「らしさ」であって、これから先の自分も「らしさ」。
自分らしさ、は今の自分を受け入れることで、それは紛れもないありのままの自分という1つだけの解答。
それが良いか悪いかなんて決め付けられないが、自分の存在が悪いなんてことは無い。
言葉を重んじて、考えに考えて、大切にしたいことを大切にして、行動して、謙虚さを忘れずに、
今日も明日も生きたい。