雨は全てを濡らす。
美しく、おぞましい姿を、都合のいい様に隠してしまう。そんな暗く湿った瞬間にしか見えない情景は、哀愁という言葉を借りて、姿を成す。ああ、また『雨の匂い』を感じてしまった。まだ足りないみたいだ、繰り返して、積み重ねて、根本を変えずに姿を成す。
『幸せな街路樹』という曲は大切な曲だ。
2019年『街路樹ににて』追加公演『abuku』日比谷野外音楽堂での川谷絵音が残した言葉は、円盤化もされ、ファンの中では周知の事だと思う。それもあり、indigo la Endという音楽の哲学には、この曲が根底にあり、歩みを加速させる一方、その変わりない姿には、『幸せな街路樹』という曲があるからこそだと私は思う。
『曲には誰にも言えない事も残す事が出来る』
これは良く川谷絵音が言葉にする事で、今、indigo la Endが外向きな音楽と向き合ってるフェーズだからこそ、訴えたい事をあえて言葉にあまりせず、『幸せな街路樹』という形で伝えようとするのは、その曲に込められたリリックのいじらしさと、その存在意義を強く意識させる事でもあると思う。
indigo la Endという全ての言葉にできない『間』を表し、哀愁や、刹那に現れる考えや感情の数々を演じる音楽。それを愛する人には、この曲の訴えようとする考え、それが伝わるのでは無いだろうか。
私はこのブログにおいて度々、『人は失敗からしか多くを学ぶ事が出来ない』と綴ってきた。
これは共感出来ることが多々あるのではないか?大きな事でも小さな事でも、もう二度とさせたくないと強く感じる時こそ、人が何かを得る瞬間であり、それを積み重ねて人は強くなる。ただ、強くなったと感じられるのは、全てが過ぎ去った時で、その瞬間には気づけず、後悔し、それを重ねていく。
これを一人称である『私』
二人称である『あなた』
この2人に置き換えて考えると、この曲の意味合いも重なっていく。
他愛を営もうとする際、それは誰かに対して何かを与える。それは物品を渡すだけではなく、想いを伝えたり、行動で示したり、色んな形態がある。ただそれらを与えることは自発的に出来るが、それを相手がどう捉えるのか、これについては、与える側では変えることが出来ない不変的な事である。与えても与えても、足りない。いや、足りないと表すより、初めから足すことなんて出来なかった。
その他愛を果たす事が出来なかったとしても、その行為を行った自分への自愛を、その与えようとした分で埋め合わせとする事は出来る。その結果は望むような事でなかったとしても、それを幸せと捉えればいい。
『与えずもの、与えられず』
その輪廻的な行為の積み重ねの中、愛という大きな枠は大きくなり、色んな形をした愛がいつしか自分以外の存在から降り注がれ、溢れる。
崩れて、成して
雨の降る日は、晴れの日よりも印象に残りやすい。
常に存在する訳では無い『雨』が降り注ぐ街の中で、何気ない情景も特別感を纏う。
何気なく気づけない事が、その特別感も相まって気づけてしまう時がある。
その時にする匂いこそが
『雨の匂いがしたって』