indigo la End 14周年
鳴り止まない拍手と、収まらない興奮と余韻。
包み込んだその音は、相変わらず前向きでは無いし、どちらかと言うと世間受けは良くないだろうと思う。
でも彼らの奏でる音には、色んな人への繋がりがあって、彼らが絶望の底に落ちた時には、その藍色で染めていく。
昨日の公演、あなたにとってどんなindigo la Endが浮かびましたか?
川谷絵音は常々『音楽にすれば許される、自分の投影、人に言えない全てが吐露出来るのが音楽』と訴えている。人に言えないこと、感じたこと、誰だってあるだろう。人は欲深い、それは時に自分が期待しない形で刃となり、自分に降り掛かる。
傷ばかり、悲しさ、虚しさ、不甲斐なさの中に自分の居場所すら掴めない、どこにいるの?何処へ行きたいの?と自暴自棄になる。
人はそんな時に言葉にすら出来ず、ただ息を吐く人形となる。
それを音に重ね、自分を投影させ、人としての姿を取り戻させるのが音楽。
そしてその音の名前をindigo la Endと言う。
音の厚みが増した。
それはメモリアルなライブに奏でる『昔の曲』があるから感じる事で、過去のメンバーにリスペクトを持ちつつ、今のメンバーでこそ出来る至高の音楽。
『映画を見るようだ』と表現される事もあるindigoのライブ、その物語性にも磨きがかかっており、人の五感を刺激する、中でも光の面においては、これほどに良かったのか?と思ってしまうほど見入ってしまった。
個人的な話も残したい、これは私のブログだ。
それくらいの自由は許して欲しい。
もうそろそろこの言葉を口にするのも飽きてきた。けど、それくらいに地元の街でindigoを聴けることは嬉しいことなのだ。
思い入れのある街はいくつかある。
色んな街で色んな感情になり、色んな物を抱えて、忘れて、また思い出して生きている。
indigoはずっと、傍に居た。
言葉にしない美しさがあると、しない方がいい事もあると、今は思うから何も残さない事に今はする。
こうやって感傷に耽る事が出来るのも、幸せだな。
幸せなんだよ、何年も生きて、ココ最近は本当に恥しかない。言葉を借りて申し訳ないけど、
まだ私の藍衆は続くし、これから彼らは音楽を更に作り出す。
歩みは止まらないし、止まらない。
君はカンナになったし、僕は猫にはなれない。
何度も『通り恋』を経たけど、まだまだ僕は下手になってしまうらしい。
悲しくなって、ひねくれる度に君を思い出してしまうし、それに重ねて『コーヒー』を飲みたくなってしまう、君の姿を思い出して、
人の欲深さと、嫉妬と、人との重なり合い
そこには必ず愛があって、崩れる度に強くなる。
街に映る影に想いを潜めて、私はまた帰る。
本当の想いは何処へ着いてこないけど、
帰ってくると信じて生きる。