indigo la End ナツヨノマジックvol.3
人には五感というものがある。
色んな方法で、その時その空間を感じ、何かを受け取り生きている。
ただ最近の私は、空虚感というものを感じて生きている。
何をしても、何が起きても感じるものが乏しい。
個人的に感受性はそれなりにある方だと自覚しているからこそ、その何かを失った、何を失ったのか分からないが何も無い、そんな抽象的にしか表現出来ない自分の状態と、そのもどかしさに心を蝕まれていた。
ただ五感を最大限に使い、音楽を受けたことで、その失っていたものが蘇ってきた。
ライブ後の充実感。
ライブ後に溢れる感情。
体を震わせる音、光、その瞬間。
自然と頬を流れる涙。
自分の感じた、考えた、受けた全てが、自分が何を失ったのか分からなかった存在だと気づいた。
取り戻せた。そう、戻ってきた。
それは失ったものを蘇ることが出来たのと同時に、indigo la Endという存在が、自分にとって生きるために不可欠な存在だと再認識する機会にもなった。
川谷絵音は昨日、「indigoという存在、バンドと曲というものがあるからこそ、自分を留めるストッパーになっている」と語った。
あの人は感受性高いからなのか分からないが、頭が回るからこそ感じるものの量が、ただならぬ量なのでは無いかと思う。
背負うものが多いからこそ、自分を見失う。
重ねるのも申し訳ないが、私も感じた空虚感というやつなのかもしれない。
ただ、私、私たち、多くの人はその歩みを止める訳にはいかないのだ。
その理由は様々だと思うが、止めることの出来ない、いや、出来るが出来ない。この矛盾のサイクルの中で、止まれない、止まれないから分からなくなる。失う、無くなる。そして生まれる空虚感。
でも何かがあるから止めない。それが彼にとって、そして私をはじめとした多くのファンにとって、indigo la Endという音楽なんだと思う。
雲行きが常に変わり、それについて行くのはしんどい。
ただ、善し悪し全ての「間」
その「間」にある何か「それ」を繋ぎ止めるのがindigo la End
形に成さないぼやけた存在に対して、価値を見出すようになったこの現代の中で、「哀愁」という概念を鮮やかな藍色で染めるバンド。
それがあるからこそ生きていられる人が確かにいて、その生きる人がいるからこそ生きている人もいる。
その「出逢い」だけがあるから人の生は成り立つ。
あの瞬間の「それ」を共有した私達は、最強にだってなれる。
繊細な感情の揺れに身を委ねて、音に身を委ねて、その藍色の音楽のロマンチックさに、いつまでも溺れ続けて生きたい。
「それ」を選んだのも、「それ」を好んだのも、誰でもない自分自身。
「1988」の言葉を借りたい。
そんな夏が溶け込んだ夜。
魔法が解けた夜。
ナツヨノマジック