indigo la End tour 藍衆
雨は全てを濡らす。
濡れた心はなかなか乾かないし、都合の悪い事は全て雨で見えないし、聴こえない。
止んだ時に、落ち切った心は何を思うのか。
その心は、素顔なのか、演じた顔なのか。
清々しいような姿で、またその歌を歌った。
『哀愁演劇』という作品、彼らに似合わないような歩幅で何段も駆け上がった2023年に、オルタナティブな曲調が特徴なバンドが、バンドとしての意義、それを追求する為に大衆に向けた作品である。
その看板を背負って、過去最大規模のツアー『藍衆』を駆け抜けていったindigo la End
その刹那に見せた顔は、演じた顔なのか、素顔なのか、そんな事はどうだっていい、彼らの創り出す音を通じた事、音に委ねたら許されるような赤裸々な感情を、ここに吐露したい。
『大衆に向けた』というテーマを掲げたくせに、そこまでポップよりでは無い、いや、どちらかというとコアより、癖の強い音楽が並んだ作品だと、私は『哀愁演劇』について感じている。
彼らは、無意識的に大衆寄りな作品を作るが、一方として、寄せようとする程に、個性が強まり、いや、個性と表すよりこだわりと評した方がいいかもしれない。そのオルタナティブな部分が強まる傾向があると思う。
外に向けた音楽をすればする程に、その個性が強まるのは、最近のSNSの広まりによって、似通ったものばかり溢れる世界には、特別良いのでは無いかと思う。
個人的にも、indigo la Endの音を好む層は、1片を除けば、コアな音に対して好意を持つ人が多いと考える。
改めて大衆音楽に対して向き合った今だからこそ、その音楽性がより一層確立したと感じられるようになったのではないか、と思う。
ツアーの構成としては、やはり序盤はアルバムツアーという事もあり、どこかに自由を失った硬さがあったと思う。それはそのような『哀愁演劇』という役柄を演じる為には必要な事、いつも以上に(言葉を選ばずに言えば)ノリを好む大衆に媚びを売るような面も、どこかで感じる事もあった。
ただ、公演を重ねる度に、音に本来の『哀愁』を感じる事が出来るようになって、それは役柄を演じる中で、自分とその音の主を上手く調和させた先に到達する事ができたから、と思う。
それは曲の構成にも表れていると思う。アンコールの1曲目の自由度は、重ねる度に幅を広げている。それは、明らかにツアーの中に余裕が生まれたからだろうと思うし、彼らが辿り着いた本来の姿、かつ、求められている事に対して再確認出来たからでは無いだろうか。