哀愁性

indigo la End 「哀愁演劇」

 

 

 

「哀愁を演じさせたら右に出るものはいない。その信念を持って作り始めました」

 

 

オルタナティブな音楽性で、この13年間ゆっくりとゆっくりと歩んできたindigo la End

今年初め、「名前は片想い」がTikTokにて流行り、去年11/1の日本武道館公演「藍」を経て、レコード名を「slowly record」としたにも関わらず、数段も歩幅が早まった昨今、長年の間、自分達の作りたい音楽と、大衆に向けた音楽の狭間に1つの答えを出した。それが今作「哀愁演劇」だと思う。

 

「哀愁演劇」は大衆音楽という言葉と、indigoの音楽を表する哀愁、そして、今年12月より始まるバンド最大級のツアー「藍衆」にかけたようなアルバム名ある。

収録曲に目を向けると、「カンナ」「名前は片想い」「忘れっぽいんだ」と、掲げたテーマの一つである大衆にも好感を持たれるような音楽で、かつ、これこそindigoと言えるような、代名詞のような刹那に感じる哀愁を帯びた音楽から、このアルバムの幕は上がる。

ただ、ここからは特異性を帯びた音楽が並ぶ。

それこそ、「暗愚」のメロディは、コアなindigoファンが好みそうな曲調であり(例えば知らない血などが好きなファン)、全てが大衆に向けた音楽でない、それこそ音楽性と大衆性の「間」を紡ぐindigoならではのアルバム構成であると思う。

 

前作「夜行秘密」から2年8ヶ月ぶりの今作、メンバー個人の言葉としても、indigoの今後のあり方について模索していることは感じられる。「Crying End Roll」「PULSATE」で自分たちの音楽性に沈み、「濡れゆく私小説」「夜行秘密」にて、再度音楽のある意義、それこそファンだけではなく、その他大勢の人に向けた音楽の意義について追い求めている。

今作は、歩みを早めたindigoにとって、1つの分岐点である。ましては今までの分岐点の中でも、特に特異的な分岐点かもしれない。

 

 

私は、7年indigo la Endというバンドを追いかけていて、良くも悪くも自分のあり方に対して、このバンドは大きな影響を与えてきた。

そのバンドが、今まで見た事がないフェーズに足を踏み入れようとしている。

1ファンとして、これからの歩みが楽しみである一方、今まで築いできたものが崩れてしまうのではないか、今までファンとしても大切にしてきた事が崩れてしまうのではないか、その不安も無視出来ない。

ただ、何時もメンバーは私達ファンに対して、目を向け続けているのは常日頃から感じられるであろう。

川谷絵音の作る音楽のベクトルも、日々進化はしているが、根本にある「哀愁性」は変わっていない。

 

もうすぐ冬夜に「藍衆」の幕が上がる。

その終劇の瞬間、何が生まれるのか、そして何が始まるのか。

この冬を越す、長い長い旅路の行先を、藍色に染められながら追いかけたい。

 

 

 

また、冬のみなとみらいの夜で「プルシュカ」を、

 

 

 

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哀愁に続く魔法の解けた夜

indigo la End ナツヨノマジックvol.3 

 

 

人には五感というものがある。

色んな方法で、その時その空間を感じ、何かを受け取り生きている。

ただ最近の私は、空虚感というものを感じて生きている。

何をしても、何が起きても感じるものが乏しい。

個人的に感受性はそれなりにある方だと自覚しているからこそ、その何かを失った、何を失ったのか分からないが何も無い、そんな抽象的にしか表現出来ない自分の状態と、そのもどかしさに心を蝕まれていた。

ただ五感を最大限に使い、音楽を受けたことで、その失っていたものが蘇ってきた。

ライブ後の充実感。

ライブ後に溢れる感情。

体を震わせる音、光、その瞬間。

自然と頬を流れる涙。

 

自分の感じた、考えた、受けた全てが、自分が何を失ったのか分からなかった存在だと気づいた。

取り戻せた。そう、戻ってきた。

 

それは失ったものを蘇ることが出来たのと同時に、indigo la Endという存在が、自分にとって生きるために不可欠な存在だと再認識する機会にもなった。

 

川谷絵音は昨日、「indigoという存在、バンドと曲というものがあるからこそ、自分を留めるストッパーになっている」と語った。

あの人は感受性高いからなのか分からないが、頭が回るからこそ感じるものの量が、ただならぬ量なのでは無いかと思う。

背負うものが多いからこそ、自分を見失う。

重ねるのも申し訳ないが、私も感じた空虚感というやつなのかもしれない。

ただ、私、私たち、多くの人はその歩みを止める訳にはいかないのだ。

その理由は様々だと思うが、止めることの出来ない、いや、出来るが出来ない。この矛盾のサイクルの中で、止まれない、止まれないから分からなくなる。失う、無くなる。そして生まれる空虚感。

でも何かがあるから止めない。それが彼にとって、そして私をはじめとした多くのファンにとって、indigo la Endという音楽なんだと思う。

 

雲行きが常に変わり、それについて行くのはしんどい。

ただ、善し悪し全ての「間」

その「間」にある何か「それ」を繋ぎ止めるのがindigo la End

 

形に成さないぼやけた存在に対して、価値を見出すようになったこの現代の中で、「哀愁」という概念を鮮やかな藍色で染めるバンド。

 

それがあるからこそ生きていられる人が確かにいて、その生きる人がいるからこそ生きている人もいる。

 

その「出逢い」だけがあるから人の生は成り立つ。

 

あの瞬間の「それ」を共有した私達は、最強にだってなれる。

繊細な感情の揺れに身を委ねて、音に身を委ねて、その藍色の音楽のロマンチックさに、いつまでも溺れ続けて生きたい。

 

「それ」を選んだのも、「それ」を好んだのも、誰でもない自分自身。

 

「1988」の言葉を借りたい。

 

そんな夏が溶け込んだ夜。

魔法が解けた夜。

 

 

 

 

 

 

 

 

ナツヨノマジック

 

 

 

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最近の事

indigo la End 『忘れっぽいんだ』

 

最近何があったかな、とふと思った。

 

私が見知らぬ土地、新潟に来てもうすぐ5ヶ月である。なんだかんだ苦しい事も、悲しい事も、もちろん喜ばしい事もあった。

でも、日々が車窓に映る景色のように、あっという間に過ぎていく。

『あんな事もあったな』と、ほんの少し前のことなのに、はるか昔の事のように感じ、最近のはずだった事が、何ヶ月も前の事だったりする。

時間と日々がカオスに混ざり合い、その混沌の中で生き急いでいる。

そんな毎日を生きているからなのか、最近、ぽっかり何かがない気がしてならない。それは、何となくでなく、『この感情どこに行った?』『こんな時に生まれてた言葉はどこに行った?』みたいにいつもあったはずの『何かが』抽象的な状態で失ってしまったような感覚にいる。

 

 

 

 

 

これは良くないよな。

 

私は音楽を嗜む人であり、感情や感覚、感性、形のない存在であるが、大事にしたいことが沢山ある。

それを大切にする為に先程挙げたような、失ってしまっている気がする『何か』は不可欠であると思う。

正直、ここまで言葉を並べても、抽象的な考えからは脱却出来ないし、何がどうあるべきなのか全く分からない。

曖昧なまま生きるのも良いのかもしれないが、その間に大切なものを失ってしまう訳にはいかない。

失ってしまいそうという曖昧な感情も、こうやって文字にして、形にする事で、失うという事に歯向かうことが出来るのかもしれない。

これも『かもしれない』ただの可能性。

 

こんなんでいい訳無い。

 

今日もこんな難しそうに物事考えて、明日も明後日も考えて、また歳を重ねるのだと思う。

曖昧なまま生きて、でも、そのうちそれが形を成して、生きた証になるのかもしれないし、

全てが『推測』なのは、私の若さゆえなのか、未熟さゆえなのか、

こんな推測と想像、妄想を重ねて生きる。

 

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言葉に出来なくなってきてしまった

あえてここは「消えたい」って言葉を選びたい。

 

こう思う事が日常的な人は、多々居ると思う。

私もよく思う。

 

けど、ここまで絶望に満ちたのはなかなか無いと思う。

流行病にかかった。

 

これはただのウイルスでないと感じる。心も社会も蝕む存在だと感じる。

 

もう限界だ。

ただでさえ、限界だと感じてる事があるのに関わらず、それを後押しするように迫ってきた。

逃げたくないのに。

けど、逃げるのは正解とも言うしな。

いや違う。負けたくないんだ。

何に負けたくないの?勝ち負けでどうにかなるの?

自分の価値がとかよく言うけど、それって本当に大事なの?

若いから何事も経験か、良い事じゃなくて、悪いこと、苦しいことも耐えて経験すべき?

 

分からないんだ。

分からなくなってきてしまってるんだ。

並べた

ゲスの極み乙女『シアワセ林檎』

 

色んな事に感化されて、言葉を並べたくなった。

最近、音楽に触れることや、言葉を呟く事が少なくなってしまった。

人の心とは、『余裕』と呼ばれるものが無ければ、大切で大事な物でも手放してしまう。

ずっと何かに追われる生活だった。私は今、戦場にタイムスリップしてしまった映画の主人公のような立ち位置にいる。その中で、苦しい事が何度もあった。起こしてしまった事でもあり、故意でなく不意であり、それが重なり、何も無い虚無感と、絶望的な疎外感、誰かにむしゃくしゃな感情をぶつけたい衝動、感情に自分を委ねてしまった。

自分の青さ、青みを帯びた色は好きだ。けど、濃く、哀愁を帯びた色がいい。淡い青さは、未熟さと、青臭さでどうしようも無い。

青に青を重ねて、藍に近い色を目指したい。

これは愛する音楽にも重なるが、藍が良いんだ。

こうやって、余裕のある間に『大事』な物を思い返したい。この休暇はその物を取り戻して、思い出す時間だった。

『音楽』は私にとって、衣食住と並ぶ存在だ。

色んな情景を重ねてきた。『喜び』『別れ』『寂しさ』『悲しさ』『苦しみ』『淡さ』『青さ』『幼さ』『達観』『絶望』『希望』表する言葉なんて、幾つあっても足りない。

しばらく、その触れられる現場から離れていた。そして、日常生活で会っても、触れる瞬間が少なくなってしまった。ただ、思い出すことの出来たあの感情と感覚。

『音楽』だけではない。『存在』であったり、『場所』であったり、『暮らし方』など大事にしたい事が沢山あった。

『存在』という観点だと、歳を重ね、年月を重ねるといつかは別れが来ると思う。

祖父母との別れが近いのかもしれない。そう感じている。ここ数年、コロナの影響で私達だけでなく、人との関わりが減った事によって、老いの速度が向上してしまったのかもしれない。いつか来るそれに向けて、残される私は何をすべきなのか。残される存在である以上、ここに関しては自己中に、自分が後悔しない選択をすべきだと思う。

祖父母だけではない、親や友人、年に数え切れない頻度でそばに居た存在も、今後の回数を数えてしまうと、1年365日にも満たない時間しか会えない可能性が高い。

クリープハイプ『ナイトオンザプラネット』の一節『このまま時間が止まってしまえばいいのにって瞬間が』

夜にしがみついてきた私達は、これから先こういう瞬間が幾つも現れるだろう。その時抱く感情を忘れるべきではない。そう心に刻め。『別れだけが人生』であり、『出逢いだけが人生』でもある。生きたいように生きるべきで、その瞬間の選択を正当化させていかなければならない。夜を迎えて、また朝が来て、日を重ねて、歳を超えてく。苦しさと悲しさと虚しさを抱えて、夜にしがみつく。

また明日。

次はいつ言葉を並べられるのかな。

でも次は必ずあるから、まだまだ生きられる。f:id:monogriri:20230814213515j:image