愛しくて、悲しい日々
『Laura day romance tour 2025 a perfect review』
今日は久々の『Laura day romance』のライブだった
私にとって、このバンドはオルタナホップでありつつ、詩と音の調和が心地よく、かつてきのこ帝国の代わりを探し続けていた私が、見つけてきた唯一無二のバンド、好きなバンドである
そんなバンドの音楽を、私は日常の何気ない場面のようで、かけがえのない瞬間によく聞いたりする
喫茶店でコーヒーを嗜んでいる時、景色良い場所で過ごしている時、様々なシチュエーションが出てくるが、そこに何気なくローラズの音楽を添えるだけで、何か特別な高揚感が得られて心地が良い 音楽って本来こうやって、どこでも耳にするはずの音を、上手く選んで自分を心地よくさせる、普通を普通じゃなくする魔法みたいなものだと思う
そうやって、音楽に日常を彩りを与えてもらいながら私は生きていたい それが私の心からの願いであるが、今はそれとかけ離れた生活を送っている
本当に自分の心が擦り切れていると感じたのは、恋人への想いが、会っていない日常では忘れかける、いや、心の中では存在しているのだが、それを気にすることができるほどに心に余白がなく、もう自分の面倒を見ることに必死で、恋人だけではなく、友人をはじめとした私生活を充実させるなんて言葉とはかけ離れた荒んだ日々を最近過ごしている
それが、とてつもなくストレスで自分を見失ってしまっている それが自分の望んだ日常なのか、そんなの嘘で塗りたくった偽物の日々
社会人として、今の場所で自分を高みに連れていくために、自分をより納得できる存在に少しでも近づくために、私は言葉の通り、命を削って日々を過ごしている
それを正当化するつもりはないし、それに対して驕ろうとするつもりは全くない(そう思った瞬間に、私の価値は腐り始めると思っているから) けど、この今いる環境は、あからさまに苦しく、正しい場所かと言われたら、そう言い切ることはできない場所にいると思う
今の私は、正しくもあるし、正しくもないし、
自分のしたいようにしているし、自分のしたくないようにもしている 凄いあやふやで、アンバランスな生活を営んでいる
時に、自分の望むような生活を味わえた時に、常日頃過ごしている環境の異常さに、虚無感とどうしようもない情けなさで、無気力な心になる
最近そうなってしまうことが多く、その喪失感がこうやって何度も繰り返し生まれていくのが、ように想像がつく
もっと日常を愛して、私の望む生活を掴みたい そう、これをずっと私は願い続いているのに、今の私は、それを真逆、ただそれを望むのも自分であって、その矛盾に、どちらも得ようとする自分が生まれて、その強欲さでなんとか騙し騙し過ごしてきたが、虚無感が体を蝕んで、私が私でなくなる感覚が凄く居心地悪い
悲しくて、愛おしいなんて思いたくもないけど、実際今の私は、この意味のわからない言葉通りに、良いと悪い、否定と肯定を一日に何度も繰り返して、息をしている
今日のライブの時もクルクルと色んな感情が渦を巻いて、私はどこか知らない場所に吹っ飛ばされていた
音楽の素晴らしさと恐ろしさはこういう所に現れると思う すごい感情を、自分の思っていないところからフッと誕生させて、私を驚かす
こんな日々は、刺激的で麻薬的だが、いつか私は悲しい想いで包まれてしまうだろうって思う
けど、今留まることとか、この場所を変えたいとかは思っていない
ただ、少しの変化を加えたい それがどんなことなのか、私には分かっているし、それが近いうちに起こそうとしているのも分かっている
驚きと予想天外で、自分でもついて行くのが必死な日々だけど、そんな日々を愛しながら、惰性で生きることなく、私は私を生きて、明日も少しだけでも背伸びしていく

ルーティンと非日常
とにかく消耗する部分を削って、いかにいくつも降ってくるタスクを対応するのか、慌ただしい毎日を過ごす中で、私の中のライフポイントは常に瀕死状態。ただ、削っていいことと、良くないことの曖昧な境目を見誤ってはいけないと日々自分に言い聞かせている。人間らしさや、自分らしさを失いたくないのだろう、ただ、社会や色んなところで見るのは、自分を押し殺して馴染もうとする姿。それが正しさを産む瞬間もあるだろうし、それが『集団』というものを生み出すためには不可欠なんだろうとも思う。ただ、馴染むことと、無色になることも間違えてはいけないと思う。なんか、生きるって本当に調整力が求められる事なんだと、私は実感している。この調整力という言葉は、私の前にいた部署の上司が言っていた言葉で、それは自分自身だけではなく、周りの人間、その他色んな場面で色んな事象に対して表現できる言葉だと考えている。そうやって、上手く自分を望む道に誘導する、その行為が自分の成長にも繋がるだろうし、生きたいように生きるためのいい技術だったりするのかもしれない。
秋の訪れを感じると共に、その年々短くなるその存在に哀愁を感じつつ、また1年が終わるのかと毎年感じるであろう感情なのに、どこか寂しさを感じてしまうのはなぜなんだろうか。
私たち達には感情がある。それはふとした時に生まれるもので、それと向き合う瞬間が多い方が、突然現れた感情に振り回されてしまうことも、苦しくなってしまうことも、上手くやれるようになるかもしれない。
私は同じように同じ街を、同じ店に行き、同じものを食べたりする瞬間にも、季節だけでも4種類の違いがあるし、少しずつ全てはズレているだろうから、それぞれの良さや、違いが生まれていたりすると思う。
久々に今日は休めたと思う。17時まで寝てた、何もせずにただずっと睡眠を繰り返していた。
どこか窮屈を感じる日々だけと、その中で色んなものに抗いながら自分らしさと、保つべきもののバランスを汲み取りながら、生きている。
正直、30を過ぎたら自分のやりたいことが見つからなかったり、多分日常の過ごし方とかに価値を見出していきたいと思っているから、あと5年後には、誰かのために生きることにシフトチェンジしていくのだろうと最近感じている。やっぱり、自分の為だけに生きていくのも味気ないし、充分自分の生きたいように生きることや、あと5年間の20代でそれをするための礎は築いたと思う(あとはそれを実行するだけだけど)だから、30からは誰かと生きたり、どんな日常を描いていくのか、それを題材にして生きていきたいなって思う。日々の生活をより価値のあるものとして生きていく、それを5年後の目標として歩んでいくのも悪くないのかなって思っている。『やりたいこと』から『築きたいもの』へのシフトチェンジかな、たぶんけど、
その為にも自分よがりになりすぎないように生きたいな、もっと恋人も友人も大切にして、もっと飯行きたいな、忙しすぎて体を休めることを求めてしまうけど、やっぱり求めるように生きたいし、諦めたり、流れに身を任せるだなんてしたくない。自分か描くように、人生を築いて私はやっぱり生きたいんだ。

暗
15th Anniversary Live Special series #3
「ナツヨノマジック vol.4」
バンドを長く聞くと、やっぱり色んなことを経てきたと思い返すトリガーになったりする。
それがいい事なのか、悪い事なのか、その判別は置いといて、こうも感受性を高める要因になったのは、このindigo la Endというバンドに触れてきたからだと思う。
今回のナツヨノマジックvol.4に至ってもそうだ。あの素晴らしい河口湖ステラシアターという舞台で、哀愁と悲哀に満ち溢れたメロディを奏でるのは彼らでしかなし得ないこと、そう感じさせるほどに素晴らしいライブであったと思う。
私にとってライブに触れること、それは演出や音楽の良さを再認識する場所であったり、色んな側面でindigo la Endというバンドと1体1で向き合う場だと認識しているが、やっぱり「歌詞」という面で深く深くへ触れ合おうとする。
川谷絵音の書く詩には、私の歩んできた人生の、その節目に味わってきた感情に近しい背景が不思議と浮かんでくる。そのどれもが綺麗かと言われたら、全くそうではないし、私にとってそれが必要なものであったのかも定かではない。ただ、それらがあったからこそ今の私がいること、この事実だけは覆すことの出来ないことだから、私にとって、その経験というものは如何なる形であったとしても、肯定させようとする姿勢を持たなければ、これから先の私を大成することもできないと思っている。
そう考えている私にとって、このナツヨノマジックvol.4のセットリスト、特に1日目のセットリストは私にとってどう足掻いても避けられない楽曲が綺麗なように並び、向き合わざるを得ないものであった。
「煙恋」の「愛されて、惹かれて、比べて、疲れて、振られて、慣れた」なんて、何度その苦い薬を味わって、何度そのデジャブのようなことを繰り返すのか、その止まることのないであろう渦の中で、もがき苦しんだあの言葉にしきれない感情の湧き出る感覚が思い出される。
私はサビのこの歌詞よりも、「暗い過去があってよかった」という、どう捉えても幸せには見えないが、この歌詞に紛れる僅かな光、それが狭い隙間から見えるような詩が、私の触れてきた感情と重なるようで好みである。
「邦画」は、今でもあの頃の私は、見てても愚かでしかなくて、どうしても肯定しきれないが、我が身を突き通そうとするあの荒々しい経験を一生肯定することはできないが、あの暗い過去を否定しないことが、私に与えられている贖罪であると認識して、自分自身を一生肯定せずに、向き合い続ける使命にさせようとしている。それほどに、この「邦画」という曲は、私にとって思い入れのある曲である。
「カンナ」は難しい、触れたいようで触れたくない確固たる考えがある。だが、この詩とメロディの素晴らしさは擦り切れるくらいに聞き続けていきたいし、私の過去と重ねようとせずに、ただただ好きな楽曲として聞き続けていきたい。あれほどに楽曲に触れ合える経験、数えるくらいの楽曲しかないが、あれは奥底のブラックボックスにしまい込むべき記憶である。
「藍色好きさ」に対しては、このバンドのファンである以上、どう向き合うのか難しい楽曲であるが、彼の音楽に触れ合ってきたからこそ、彼の思いが嫌なくらい伝わってしまうからこそ、この楽曲を肯定も否定もせず、その時に感じたもののまんま、楽曲に対する思いを抱けばいいと思う。
「蒼糸」は、もう言葉にわざわざしなくても、これから先もターニングポイントで聴くべき曲であって、この曲を肯定し続けることで、自身を肯定することのできない私であっても、どうにかいい形に落ち着くことができるような淡い期待を抱くことのできる希望に満ち溢れた曲。
暗い底に沈んでからでしか見えない景色もあって、そこで感じたものは、他の何にも比べられない何かになる。だから、私はそうやって底に沈む行為は否定せず、それを続けて欲しいと私や、私以外の人間に対しても思い続けていくと思う。
「通り恋」は、ちょうど5年前にあった日に、聴いてしまった曲で、あれを背負うべきものだと思って、この15周年を振り返っていたりした。
でもふと、そんなことも気にしないし、ましては聞くことも少なくなったなと思った。良かったと思った、もうあの日の私に戻らなくていいのかなって思えたりもした。
なんというか、不思議な夜だった
どうしても、こうやって私のあれこれと比較してしまうのは嫌で、けど、そうやって一つ一つの楽曲に触れ合うべきと、この一年を位置づけているから、私の中のブラックボックス、誰にも言わない言えない伝えない触れさせないこの核となる部分は、武道館の日に全て別れを告げて、これから先の日々に繋げて生きたいだなんて考えている。
こんな自分の人生を振り返りながら楽曲に触れるなんて戯言はやめにして、ただ、音楽にしっかりと向き合うことにしていきたい。

人生観
人生観
25年しか生きてないペーペーが人生観なんて大それた言葉を発言し、解釈しようとすること自体、背伸びした行為だと思う
けど、この背伸びすることを少しずつ続けていけば、もしかしたら、今見えている景色よりも広い世界とか、違う世界が見えるかもしれないって思うから、自分なりの生き方をする
完璧になってはいけないの思う、完璧になれる訳ないけど、今がいいなって思ってしまったり、幸せだなって思ってしまったら、負けっていうか、なんだろう、なんか嫌
自分を許容なんてできない、どこかで自分への甘えが滲み出ている私にとって、自分を肯定することは、ぬるい生き方をすることと同等だと私は思っている
そのくらいしないと私は緩んでしまうくらいに自分にだらしない人なのだ
今まで何度自分の緩みで後悔をしてきたのか、それは人に言えないこと、言えること、多種に渡るし、今になって思い返す度に自責の念に押しつぶされそうなる
上手く仮面をいくつも使いこなして、本来の綻びばかりの自分を偽っている 本来の姿がどんななのか、自分でも忘れてしまったけど、
満足はしてないけど、充実していると思う
楽ではないし、どちらかと言えばかなり苦しいけど、それもそれで良かったりしている
25歳という、恐らく人生の1/4を過ごしたこのタイミングで、私という人生が、どう最後の最後に安心しきって満足することができるのか、それをどうしたら成し遂げられるのか、それがまだ分からないまま、目の前の困難と、困難と、困難しかない毎日と繰り返し過ごしている
本当であれば、音楽と好みに囲まれた部屋で、ゆっくりとした日々を過ごしながら、時に甘いものでも食べに夜の東京をフラつきながら暮らしたい けど、それを選ばさない私の人生とは本当に矛盾に満ち溢れている
けど、窮屈な生活の中で、自分の理想を手に入れることが良い事だと思うし、そうすれば、当たり前では無いと気づきながら暮らす事ができる と思っている
本当に毎日よく生きてると自分を褒めてしまいたい、と思うのは余計だ そこで自分に満足してしまったら、私はそれ以上の私になることはできない
私が私が望む以上になりたいのであれば、私があるべき姿を縛り付けることは避けたい
もっと面白い人生を歩もう 自分の望むような人生を歩もう それが全てだ

日記
何か日記のような事を書きたくて、今メモとにらめっこを始めて3分、何をどう書くのが正解で、これを人様に公開することになんの価値があるのか分からない(なんのと表現しているのはワザとです)けど、言葉にすること、形にすること、そしてそれらを整理することは意味を成すと思っているから、少しばかりやってみる
前振りが長くなりすぎた、最近思うのは「褒められてしまうと、そこで満足してそれを「幸せ」と定義してしまう、そうならない為にも、常に満足せずに自分を律して(律するってなんかかっこいい)、何かを追い求め続けることこそが、常に幸せにありつく為に必要な姿勢なのではないか」ということ
こういうことを言葉にしてしまうと、なんか形になって、らしいことを言ってるように思えるけど、簡単に「自分に甘い自分に負けるなよ」ってことだと思う
昨日、今日と自分と年の離れてる人(10は違うよな、多分)と、そういう話をしてて、今どきの子は褒めて伸ばされるんじゃないの?とか、なんかいわゆる「今どきの子」との間に、ズレがあるみたいって感じた、今更かな
なんかそれを特別に感じてたり、自分を誇らしげに感じてしまったら負けというか、そこまでの人間なんだなって想うから、ここは1回「謙虚」って言葉を思い出して、自分を抑え込む、いやいや、お前はそんな大層な人間じゃない、まだ淡すぎる欠点ばかりの人間だぞ?思い出せ?って 今、25歳って若いのか、それとも少しばかりは大人ってやつになってきたのか、その境目みたいな立場になって、もっと人生を人生らしいもの(どんなのだよ)にしたいなって思う 実際、今同じ年頃の子達って何考えて生きてるんだろか、自分の周りには、そこを上手く言語化できる奴らが多くて、俺も置いてかれないように生きているところもあったり、日々、刺激的なんだよな けど、周りの年上の方たちには「現代の子には珍しい」って言われるから、そのギャップの要因が分からないし、これをなーなーにすべきではないと思うんだよね、理由はただ1つ、すぐ調子乗るから、いい気分になって、ほんとお子ちゃまよ
何を書いてたっけ、自分のことか、でも思うのは、野心と強欲さに満ち溢れていると思う、それはそれでいいし、追い求める気持ち、渇望さが無いと、何も生み出せないし、何もなし得ないと思う けどね、その目標?抽象的な「人生を生き抜いて死にたい」ってのはあるけど、それを対して、どういうことをするのかとか、その具体的な計画と目標と行動はハッキリしないのがずっとなんだよね、今の会社で暴れ散らかしたいっていうのは当たり前なんだし、その先で何をしたいのか決めるのが、今のフェーズかなって思う、で、そのためにも今の位置から何かを得ようとして、必死に活動、吸収とか色々殺るべきなんちゃうかなって思う
再生と構築、永遠の空白と、永遠に埋められないそれ
これが輪廻的な概念として、常に抱くことで自分の人生に価値を創成できると思う
こういう考え方に至るまで、それまでが正しかったのか決められるのは、これからの自分でしかないってのは、いつものポリシー
今までの人生を思い出すと、それは価値のあったものなのか、特に思うのは、人とは違う生き方をしたいって考え方がずっと抜けない
「普通」に対する嫌悪感がずっと拭えない とにかく特別でありたくて、自分は唯一無二なんだって肯定をしたくて生き足掻いている どうなんだろうね、ずっと悩んでるし、普通がいいんだよって色んな人に言われてきてるけど、どうしても納得しきれない自分はいる 特別でいたいなら、それに見合う姿勢を維持しなければならない その覚悟が自分にあるのか分からない
って感じに、いつも頭の中で渦巻いている内容に辿り着いてしまった、、生きるって面白いよ 楽しいとか幸せとか、簡単に吐き出したくないから言わないけど、興味深いものだと改めて思うよ これからどんな人生を作っていくのか興味深いけど、ただ1つ、もう1回人生を作り直せるのならバンドマンになりたいね 自分の思うことは発信してみたいよ
なんか日記を書こうとしたのに、タラタラ脳内を言語化してしまった、、もっと「このカフェ美味しかった!」とか、日記みたいなこと書きたかったのに笑
それはまた今度、書くの疲れちった

箱
indigo la End 「通り恋」
特別な立ち位置にあるのが「通り恋」
いつからなのか、それははっきり覚えているし、それが何故なのか、明確な理由がある
けど、それは自分自身のブラックボックスにしまい込んだ記憶であって、もう遠い昔、かつてあった筈の出来事でしかない
そんな経験に関係なく、この「通り恋」という曲は、私にとってindigo la Endを語る上で軸になっていて、それは「幸せな街路樹」や「she」と同じように、根幹にあるべき曲としている
ただやはり、いつまでもこの曲に執着し続けていいものなのか、というなんとなくの疑問はずっと抱いていて、曲に対する向き合い方をどうすればいいのか、上手く言語化はできないけど、モヤモヤとした感情を抱いていた
そして迎えたあの日、夜凪
あの日のMCは今も残っている 川谷絵音本人がこの曲に対して「戒め」と、背負うべき事だと言葉にした 殴られたようだ、曲は世に出した瞬間に自分のものではなくなると常に言葉にしている川谷絵音が、「通り恋」に対して「戒め」だと口にした
全く軽くなく、重くのしかかる言葉
この曲をそう評するのであれば、軸に添えている私にとっても、向き合うべき瞬間が、今なのではないかと思う
過去に縛られたくないと、常日頃から言い続けている私が1番過去に囚われている
その事実に気づいた時、かなり自分に対して否定的になって、目を背けたくなった
見るべきは、今目の前と、これから先
ただ、変わらない過去も存在するわけで、つまり、全てを罪として背負って生きていくしかない 罪なのか、どう捉えるのかは人それぞれだが、大切にしたい今を生きるためにも、向き合うべきことだと思う
これほど「通り恋」に対して、私情を組み入れていることはどうなのかと思うが、indigoに生かされ、そうやって人生を作り上げてきた以上、致し方ないとは思う
この曲が、この先の私にとっても大切であることは変わらないが、その向き合い方とかつてあったと思われることを背負って生きていく事へ移行していきたい
雨は出逢いと別れの境目である
零れるほどの愛情と、積み重ねた「好き」
それを伝えるべき相手に渡す事を、決して忘れちゃいけない

幸せへの渇望
15th Anniversary Special Series #2
ONEMAN TOUR 2025
「藍のすべて」
出逢った事がすべてだと思う。
indigo la Endが今年15周年を迎えた
以前の10周年とは環境が異なり、日本武道館公演、横浜アリーナ公演など、大きな箱での公演を経て、現代のオルタナポップにとって先駆者的立ち位置として、彼らはアニバーサリーである今年を迎えている
私にとっても、今年は彼らの音楽を聴き始めて、あの高校一年生の頃、「夜明けの街でサヨナラを」を聴いたあの日から9年が経ち、25歳という、人生の大体1/4を過ごした節目でもある
そんな今年は、私自身にとってindigo la Endに向けて、何か分岐点的な瞬間になると感じている そんな中で迎えた今回のツアー「藍のすべて」 アルバムをリリースしたばかりにも関わらず、これまでのベスト盤のようなセットリスト、各公演限定の楽曲など、彼らが歩んできた全てを投影するようなツアーだった
indigo la Endと見てきた景色は多種多様で、歩んできた人生の半生を音楽と共に歩んできて、その影響は測りしえない 今の私を構成する半分以上が音楽、特にこのindigoと呼ばれる存在が大半を占めており、言わば、私のこれまでを語る際に、彼らは切り離せない存在なのである
それぞれの曲に、託した、背負わせた、感じた色んな事がある その中でも「通り恋」「蒼糸」の2曲に関して、私にとって軸としてあり続けている まずはその2曲に対して触れていきたい
通り恋
特別な立ち位置にあるのが「通り恋」
いつからなのか、それははっきり覚えているし、それが何故なのか、明確な理由がある
けど、それは自分自身のブラックボックスにしまい込んだ記憶であって、もう遠い昔、かつてあった筈の出来事でしかない
そんな経験に関係なく、この「通り恋」という曲は、私にとってindigo la Endを語る上で軸になっていて、それは「幸せな街路樹」や「she」と同じように、根幹にあるべき曲としている
ただやはり、いつまでもこの曲に執着し続けていいものなのか、というなんとなくの疑問はずっと抱いていて、曲に対する向き合い方をどうすればいいのか、上手く言語化はできないけど、モヤモヤとした感情を抱いていた
そして迎えたあの日、夜凪
あの日のMCは今も残っている 川谷絵音本人がこの曲に対して「戒め」と、背負うべき事だと言葉にした 殴られたようだ、曲は世に出した瞬間に自分のものではなくなると常に言葉にしている川谷絵音が、「通り恋」に対して「戒め」だと口にした
全く軽くなく、重くのしかかる言葉
この曲をそう評するのであれば、軸に添えている私にとっても、向き合うべき瞬間が、今なのではないかと思う
過去に縛られたくないと、常日頃から言い続けている私が1番過去に囚われている
その事実に気づいた時、かなり自分に対して否定的になって、目を背けたくなった
見るべきは、今目の前と、これから先
ただ、変わらない過去も存在するわけで、つまり、全てを罪として背負って生きていくしかない 罪なのか、どう捉えるのかは人それぞれだが、大切にしたい今を生きるためにも、向き合うべきことだと思う
これほど「通り恋」に対して、私情を組み入れていることはどうなのかと思うが、indigoに生かされ、そうやって人生を作り上げてきた以上、致し方ないとは思う
この曲が、この先の私にとっても大切であることは変わらないが、その向き合い方とかつてあったと思われることを背負って生きていく事へ移行していきたい
雨は出逢いと別れの境目である
零れるほどの愛情と、積み重ねた「好き」
それを伝えるべき相手に渡す事を、決して忘れちゃいけない
蒼糸
蒼糸に関して、22歳の時にどこまで読み込めるかなって、曲の解釈についてはやってみた事がある。
その時、改めて日本語の美しさと、人と人の重なり合いに芽生える気持ちの眩さを感じて、この曲は私にとってキーであることを再認識した。
今回のツアー「藍のすべて」ではもちろんこの曲は演じられていて、川谷絵音本人も、この曲が生まれた時のことを綴っていた。
indigo la Endの良さは、感情と感情の「間」に芽生える言葉にしきれない存在について、それに触れる美しい歌詞にあると思う。
終わりと始まり、出逢いと別れ、色んな瞬間の「間」の美しさ、それを1番表してるのが「蒼糸」だと思う。
今の私、25歳になる私から「蒼糸」はどう映るのか、紐解いていきたい。
どの曲もそうだが、確固たる自分自身を持ってたとしても、他者を羨ましく感じたり、妬んだり、比較したり、そうしてしまう気持ちの表れをどこかで感じる。
だからこそ、井の頭線に乗ってるだけでも偉くなったような気がしてしまうし(これは私もだが、井の頭線に乗って下北沢や吉祥寺に向かう瞬間にしか感じられない感情があったりする)、論理的に理屈っぽくひねくれてしまう感じが見受けられる。
そんな人間だからこそ、自身を受け入れてくれた人に対して思う気持ちは、受け入れてくれた喜びと比例して大きくなり、積み重なる日々も膨れていく。
「起承転結 3文字目半の糸」
この歌詞のハマり具合は言うまでもなく、サビ前に当たり前のように存在する。
人との出逢いと別れ、それだけではなく全ての出来事に山あり谷あり、様々な場面の積み重なりあい、全てをなす。点と点で生じる出来事も、気づいたら長い長い糸を紡いで、1つの物語として形になる。その糸をどれだけ長く、強固で、美しい色にできるのか、それこそ人生の面白い点の1つなのではないか、とも思う。
自身への悲観的な考えは、良いようには働かない。それが悩んでも仕方ない、行動するしかないとか、自分にはこれがあるから、なんとかなるはずとか、そんな器用なやり方が出来れば悩む事もないが、そう上手くいかないのが人生。
けど、目の前の人を愛する行為だけは、軽んじる事はしたくないし、それをしてしまうと相手も、自分も苦しめるだけの足枷になる。
与えると与えられるの連鎖と、それをどう受け止めて、自分なりに咀嚼するのか
恋を愛に昇華して、もっと大きさや数だけではなく、質で重い価値を乗せて行ければいい。
蒼く、若い後悔は後を耐えない。いつになったら、そんな事もなく、人を愛することができるのだろうか。人を愛するだけではない、自愛も然り、もっと幸せに生きるためには何をどう求めればいいのか、そんな明確な答えなんて見つからない議題に対して、悩む事を繰り返す。
甘い誘惑に惑われた事は、振り返れば後味の悪いものだが、それは幸せになるために必要な「毒」だった事にすればいい。
前に解釈を行ってから、3年経とうとしてる。
あれから大きさや、期間を問わず「恋愛」という行為だけでも、何回重ねてきたのか分からない。自身の感情が見当たらなくて焦ってしまったり、それは恋愛だけではなく、生きてきた中で出逢った全ての出来事に対してだが、歌詞の言葉を借りてしまうのであれば、確実に下手で、憐れな姿で滑稽だったと思う。
この3年間を振り返ってみると、誇れる事なんて何ひとつもない、恥ずかしい話ばかりで、ここでさえ大声で言葉にできない事ばかり。
それは、身の補いであれば、よくある話のように片付けられるかもしれないが、心の補いであったからこそ、ああするのは正解では無かったかもしれないと、今も思う事はある。
もうこれは、人として生きているから仕方ないと割り切るしかないのかもしれない。誇って生きれる程に私は価値のある人間ではないし、日々、謝ってばかりを繰り返している。
だから、私も背負って生きるべきだと思う。これまでも、これからも自分の人生な訳で、否定も肯定もすることが出来ない紛れもない事実でしかない。そう生きる人生の中で、失敗と後悔で満たされた時に、出逢うべくして出逢うべき人間と一緒になれるのかもしれない。
普通も幸せも不幸も、全てこれから先も起きていく。そんな日々に吉に糸が絡みついて、また、その存在と糸で絡み合って、一緒になることが、辿り着くべき「蒼糸」である事にする。
淡い青が、新しい色を付け加えることで深い蒼になって、糸を成す。
1本の、長く、重なって、重くなる。
糸が吉と絡みつくように、糸がその者と絡みついて、幸せを紡いでいく。
そんな起承転結の終わりを迎えられる事を信じて、私も目の前の人、出来事に向き合ってく。
このアニバーサリーツアーを終え、1つの命題に対して向き合っていくべきなのでは無いかと感じた それは「幸せへの渇望」だ
こうやって、ツアー自体は7公演参戦し、日々の日常でもindigo laEndに触れて、自身の心情の変化や、見えてくるものなど、色んなことを感じ、考えてきた
悲観的で、底に落ちて行く瞬間にこの音楽を好んで聴き、その底での景色や記憶が残っている
そう経てきたはずなのに、今の私は違うフェーズに来たと感じた
それはセットリストに載る曲に対する感じ方の変化もあるだろうが、川谷絵音自身も、過去の自分を肯定しつつ、自身のこれから先、描きたい姿を度々言葉にしているように、今までとは違う何かになろうとしているのでは無いかと思う
各公演でそう感じた楽曲を挙げるとしたら、以下のものになる
千葉公演 「花をひとつかみ」「瞳のアドリブ」
静岡公演「蒼糸」「幸せが溢れたら」
東京公演「BOYFRIEND」「通り恋」「抱きしめて」
これまでのライブでは、絶望に近い感情に落ち、自身の否定と、その先にあるはずの光に向けた瞬間であったが、今回は自身の状況に対して「幸せなのかもしれない」と思わせられる瞬間が多々あった
ただしかし、それだけではダメなんだと思う
永遠に正解なんてものはなく、ただずっと満足することが出来ない、「幸せへの渇望」を動力に、全ての出来事に対して向き合う姿勢が必要なんだと私は思う
「最後の名前は空白」
Play Back End Rollの一節、これまでの自身の人生を振り返り、こうであった、ああしなければよかった、それはしてよかったなどの色んな場面が過ぎってくると思う ただ、その中で最後を埋めてしまうと、そこで物語は終わってしまう
「空白を探す旅 Play Back End Roll」
私が大切にしている「幸せな街路樹」と同じように、愛や幸せなんかに定義はなくて、人それぞれ多種多様な姿、形がある だからこそ私自身は「これが幸せなんだ!」と定義することはしたくなくて、日々の生活の中で、ふとした瞬間に「幸せ」の2文字が過ぎるくらいで、毎日何か形にならない「何か」を追い求めて、悩み、苦しみ、時には笑いながら幸せみたいなものを噛みしめて、そんな人生を組み立てながら生きていく、それを「空白を探す旅」と名付けて、これから先、歩んでいくのが自分らしいのではないのかなとこのツアーを通じて、indigo la Endに人生を作ってもらった1人のファンが感じたことであった
この曲がこうで!あーで!といったような感想は、これから先のライブでも感じてるだろうから、今回の感想では割愛する
今回、私が感じたことを言語化したかったテーマは、これまでの人生とは少し違う分岐点にいると感じていて、それと今回のツアーを重ねた時に、これからの人生をどうやって築いていきたいのか、それを上手く言語化したかったから、こうやって記すことにした
振り返ることで、indigo la Endはこれから先も好む、好まないの問題ではなく、切っても切り離せない大切な存在であり、川谷絵音がMCで「帰ってくる場所でありたい」と言葉にしていて、16歳の頃から聴いているindigo la Endを拠り所にこれからも生きていきたいと決心に近い感情になった
まだ何か言葉にしたい感情があるかもしれないが、それは思い出したら言葉にしたい
まだアニバーサリーも半分残っている 今年1年全てを見逃さないように、私の出来る範疇以上にindigoと向き合う一年にしていく
藍色に染まっていく人生を、より一層深く、美しい色にしていきたい
